「グレン、お前、いきなり抜けたいってどういう了見だ」

不愉快そうに顔を顰めて問いかけてきたギルドマスターにちらりと視線を向けた彼は、軽く肩を竦め た。

「そう言われましても、出会いがいきなりでしたので」
「でしたので、じゃねぇ。お前、今仕事抱えてんだろが」

放り出していく気かと低い声で確認され、その通りですと頷くとひやりとした空気が漂う。

こんな時、対峙しているどこか赤みを帯びた黒肌の男は確かにマスターなのだと実感する。普段は何 事につけのらくらと遣り過ごす、駄目人間にしか見えないのに。

(これが紅闇、か)

些か感慨深い実感は、初めて会った時にも覚えたものだ。


この世界には、聞いただけで呪われるとでも言いたげな反応をされる闇ギルドが二つある。

一つはフェイクエンド、こちらはギルドとは名ばかりでほとんど所属する者もなく、暗殺を主として マスターが一人で暗躍しているらしい。結成したのは最近だが一年で瞬く間に名を馳せ、今では二強 の一角を担っている。
対して最古の闇ギルドとして恐れられているのが紅闇、目の前にいる闇をそのまま具現したような男 が治め、彼が所属するギルドだ。

少数精鋭を謳って所属する者は少ないが、暗殺に限らず裏家業のほとんどを幅広く受け持っている。
おかげで休む暇もないほど忙しく、人を増やせとは顔を合わせるたびに呈していた苦言だが。
馬鹿を増やしてもしょうがないだろうと真顔で返された答えに的確な答えを持たない以上、命じられ るまま馬車馬のように働いてきた。

休みを寄越せと口では言っていたが本気で辞表を叩きつけたくなるほどではなく、どうしようもない 無茶は蹴り返したりして遣り過ごし、それなりに上手くやってきたつもりだ。いつの間にか滅多と人 前に姿を現さないはずのマスターと、こうして面と向かって話ができる程度には。


「後の始末は頼みました」
「聞いてやる必要性がどこにある。仕事を放り出して出て行くなら、お前の首を置いて行け」

かなり本気を窺わせる殺気を纏ったまま告げる紅闇──本名は知らない、ただギルド名で呼ばれるの はマスター一人だ──に、彼はご冗談をと肩を竦める。

「せっかく出会えた魂を捕らえる存在を置いてここで死ぬなど、御免被ります」

あなたの首を取ってでも断りますとにこりと笑顔で切り返すと、紅闇は一瞬呆けたような顔をして、 それからぱあっと喜色を浮かべた。激昂して切りかかってきてもいいはずを何故かひどく喜んだ様子 を見せ、何だお前それを早く言えよと満面の笑みで肩を叩かれる。

「そうか、お前もようやくそんな相手を見つけたか! そりゃ足抜けしたくなるっつーかしろ、マス ター命令だ。その代わりもう帰ってくんなよ」

帰ってきたら殺すぞと嬉しそうな笑顔のまま続けられた言葉は、確実に実行されるだろう予言じみた 強さを帯びている。ある程度の予想はしていたがそれ以上に本気で喜んでいるらしい紅闇を何となく 遠く眺め、溜め息をつく。

「どうして他人事でそこまで喜べるんですか。さっきまで、仕事放棄は万死に値するとでも言いたげ だったくせに」
「何の理由もなく放棄するなら殺すしかねぇが、半身を見つけたならしょうがねぇ」

世界を覆せるほどの大事だと真顔で言う紅闇は、それを理由に何度となく契約を反故にしているのを 知っている。

紅闇への依頼が命がけと囁かれるのは、嘘をついたり陥れようとすれば即座に殺される事実があるば かりでなく。時折マスターの気紛れが発動し、依頼する時点で生命を落とすこともあるからだ。
本人には明確な理由があるようだが他人の目から見ればひどく理不尽で、虫の居所に左右されている としか思えない。そのせいで余計に忌避されるのだが、本人に改善する気がないのだからきっと潰れ る日まで気紛れとの評価を受け続けるのだろう。

ただ、直接話ができるようになって知ったことだが、紅闇の仕事に対する姿勢は真摯だ。倫理と照ら しては外れていることも多いが、契約を交わせば全員に遵守するよう徹底している。契約不履行はマ スターが最も嫌うところで、内外を問わず自らの手で制裁するのも辞さないほどだ。

その紅闇が何を基準に契約の破棄に至るのか疑問に思い、一度尋ねたことがある。

黒にも見える深紅の目で彼を一瞥した紅闇は、決まっているだろうと片方の眉を跳ね上げて何でもな さそうに答えた。

曰く、月の不利益に繋がる仕事はしない。

まるで心臓が止まれば死ぬのと同じほど当たり前のように答えられ、彼は何度か目を瞬かせ、はぁそ うですかと答えたのだったか。

その頃の彼はまだ自分以上に自分を縛る存在など持ち合わせず、持ちたいとも思っていなかったので、 理解できないというのが正直なところだった。
世界最凶の男が、自分以外の誰かの為に我を曲げるとは。情けないと僅かに失望もしていたが、今な ら分かる。

その存在の為なら喜んで自分など差し出せる、絶対的な相手。向けられる想いがなくても側にあれる ことだけを喜べる、無償の愛を捧げて尽くしたいと望む人が現れた今なら。

思い出して口許を緩めた彼に、紅闇はどんな相手だと興味深そうに尋ねてきた。
話すと減るような気がして一瞬眉根を寄せたが、深紅にからかう色がないのを見てそっと息を吐く。

「とても稚く、お可愛らしい方です」

大事そうに告げる、それ以上の言葉がないのはまだ見つけたばかりでよく知らないからだ。

その程度の相手にと驚く自分もいるが、あの海色の宝玉に射られた瞬間、膝を屈してしまった。
邪視に惑わされたのだとしても構わない、側にない今でさえ思い出すだけで心の内が満たされる。錯 覚だとしてもこれを齎してくれた相手なら、生涯の愛と忠誠を捧げるに値する。

紅闇は黙って彼の様子を見ていたが、そうかと繰り返して満足そうに頷いた。

「名は? お前が側にあるなら滅多なことはないだろうが、一応こっちでも引き受けないようにして やろう」
「助かります。飛鷹譲葉様です」
「飛鷹……、? 今回のターゲットじゃねぇか」
「ええ、ですから途中放棄させて頂きます」

投げ出す理由をにこりと告げると、紅闇は僅かに困った色を刷いたがすぐにまぁいいかと肩を竦めた。

「分かった、祝い代わりにそれもこっちで始末をつけといてやる」
「そう言ってくださると期待していました」

お世話になりましたと深く頭を下げて諸々の礼に代えると、それでは失礼しますとさっさと踵を返す。
呆れた気配の紅闇はそれでも無駄な引止めなどしないで、二度と来んなーと軽く背に投げかけてきた。
そう願いますと片手を上げるだけで答えた彼は、その日から紅蓮と名を改めた。





「……お前、何をちゃらっと当たり前の顔してここにいやがるんだ」

嫌そうに顔を顰めて言いつけてくる紅闇に振り返り、お久し振りですと笑顔を浮かべる。お久し振り じゃねぇだろとますます嫌そうにした紅闇は、彼が座っている椅子を蹴り飛ばした。

「出てけ」
「お断りします」

またお世話になることになりましたと挨拶代わりに一礼すると、静かな殺気が漂ってくる。すぐにも 殺されそうだと察して苦笑し、傷心の私にひどい追い討ちですねと背を向ける。
けれど紅闇の気配に変わりはなく、そこにいるだけでもかなりの胆力を要しながらもコンピュータに 向かう。

「半身の半身たれる可能性なんざ低い、分かってて側にと望んだんだろうが。相手が結婚する程度で 尻尾を巻いて戻ってくるような腑抜け、いらねぇんだよ」

殺されたくないなら出て行けと抑えた声の警告に、その程度のことでしたら離れるわけがないでしょ うと頬を引き攣らせるようにして笑う。

「ただ私がお側にあっても邪魔になるだけ、紅闇に戻ったほうがあの方の為に働けるのです。お側に 戻れる状態になりましたら即座に出て行きますので、しばらく置いてください」

極力そちらに顔を向けないようにしながら、キーボードに指を躍らせる。紅闇が管理している銀行に、 無造作に置いたままの額を入金すべく手続きを始める。

「何だ、その馬鹿げた金額」
「支度金にと国から渡されたそれを、ご両親はあの方にそのままお渡しになられましたので。それと 翡翠様の完全個人資産です」
「翡翠って言うと、青嵐の王だろう」
「ええ。先日、譲位なさって国を出られましたが」

まだ発表はされていないので王とも呼べるでしょうねとどうでもよく言い添えると、紅闇は初めて空 気を和らげて隣の椅子に腰掛けた。

「王位を返上して国を出た? 戴冠式を済ませたばかりで、時期に婚儀も挙げる予定だったろう」
「内々には既に済まされましたので、あの方は既に王妃であらせられます」
「逃げたのか」

責めるではない淡々とした確認に、少しだけ言葉に詰まってから左様ですと頷いた。

「王位にあってはあの方を殺す、それだけは避けたいとの仰せにあの方は躊躇なく頷かれましたので」
「それで尻尾を巻いて逃げてきたのか」

今度は明らかに棘を含ませて彼を責める紅闇に、何を聞いていたんですかと苦笑する。

「飛鷹は元より国境警備を任じられた家柄です、あの方には幼い頃から私が戦い方をお教え致しまし た。翡翠様にしても私と渡り合えるほどの技量はお持ちです」
「お前と渡り合えるって、どんだけ強いんだ、その王さん」

軽く引き気味に突っ込んだ紅闇はけれどそれで全てを察したのだろう、長く息を吐いてふぅんと天井 を仰いだ。お前必要ねぇなぁと、ざくりと突き刺さる言葉に心臓を抉られる。

「そういうことなら置いてやる。玻璃への情報撹乱と各地で金の受け渡しなんぞ、ここにいねぇと無 理だろうからな」
「ご高察、恐れ入ります」
「まぁ、その手のシステムはお前がいる間に確立していったもんだ。半身の為に使いたいなら尚更、 好きにしろ。但し俺はしばらくここを離れるから、後は任せたぞ」
「は!?」

何を言い出すんだこの野郎と言いたげに彼が振り返ると、紅闇はいいタイミングで助かったとけろり と笑って立ち上がっている。待ってくださいと思わず服の端を捕まえるのは、放っておけば説明もな しにいなくなる気がしたからだ。

「後は任すって何事ですか!」
「何だ、出戻りをあっさり受け入れてやった俺の寛大に感謝して黙って引き受けろよ」
「あっさり?! あれだけ殺意を垂れ流しておいて何を言ってるんですかっ」
「いいじゃねぇか、殺してないんだから。それにどうせ、お前ここに篭って動向を見守るんだろ?  各地の面々に逃げる手伝いしろって指令を出すのも、いちいち俺に聞く手間が省けていいだろが」

半身の為になら好きに使っていいぞと恐ろしいほど簡単に全権を与えて出て行こうとする紅闇に、ど こに行く気ですか! と噛みつくように尋ねると、ひどく幸せそうな笑みを浮かべられた。
知らず怯んで服を掴んでいた手を離し、もはや聞くまでもない答えを待っていると紅闇は大事そうに その名前を紡ぐ。

「スウェル老のところだ」

予期していた月の代名詞としては、既に聞き慣れたそれだった。

占者として名高い老人は、紅闇が抱えている情報屋の内の一人にして最も信頼できる人物だった。占 者としてはともかく情報屋としてはほとんど名も売れない時期から紅闇は老人を丁重に扱い、客分と して遇していたのは知っている。
けれど月に対する時とは明らかに態度が違い、紅闇を知る者は全員が首を捻っていたものだが。

何よりスウェル老に関して最も重大な情報を掴んでいた彼は、わけが分からずに眉を顰めた。

「確か、老は先日亡くなられたのでは?」
「お前、離れてたくせに早耳だな」

それこそ世界レベルのトップシークレットだぞと呆れたように感心する紅闇に、情報は命ですからと 返すと褒めるように目を細められた。

「そうだな、情報は命だ。スウェル老の後を継いで情報屋となったシュリを守るのは、つまり俺自身 を守るってことだろ」

大事そうに、いつも月を呼ぶのと同じ強さで呼ばれた名前は微かに彼の記憶を刺激した。
スウェル老が連れていた、孫娘。血の繋がりはなく占いもできないはずだが、彼女はただ一人老の仕 事を間近で見てきた。死に直面して老が全てを託すとすれば、きっと彼女しかいないだろう。

「その方が、今度の月ですか」

今度の、と思わず皮肉が口を突いたのは、知っているだけで五人目だからだ。一人は早くに死去され たので今は四人かもしれないが、それでも特別として掲げるには多すぎる人数だろう。
けれど紅闇はそれこそわけがなからないといった顔で、軽く首を傾げる。

「今度も何も、月はどれだけ姿を変えようと唯一だ」
「それでは、銀細工師や賞金稼ぎの艦長、クシンの姫君は何とされるのです」
「だから、月だって」

何を言ってるんだとまるで馬鹿な子を見るように眉を顰められ、間違ってるのは私のほうか!? と 頭を抱えそうになるが。月を口にする時の紅闇はひどく幸せそうで、ご機嫌だ。

「まぁいい、そんなわけでとにかく俺はシュリの警護につく。後は任せたぞ」
「っ、いつ戻られるのです?!」
「俺の手が必要じゃなくなった時」
「それまでに私が出て行くことになればどうするのです!」
「知るか。後任は探してから行け」

俺はお前に任せたと爽やかに言い放つとさっさと部屋を出て行く紅闇を、止める言葉などあらばこそ。
ぽつんと一人残された彼は、深く溜め息をついてぐったりと椅子に身を投げ出した。

「どいつもこいつも、身勝手な……」

彼を振り回していいのはただ一人、彼が唯一と定めた彼女だけ。今は側にあれず、決して彼の手の内 には収まっていてくれないけれど、それでも存在を確かめるだけで今もまだ胸の内を満たしてくれる。

急ぐ仕事はまだ山積みだ、世間知らずの二人がそれでも手に手を取って納得するまで逃げられるよう に。例えこの先彼女に恨まれたとしても彼女だけは生き延びられる道も用意しながら、気が済むまで 付き合おう。
大事な翡翠を失って泣き崩れる姿を見て、胸が空くとは思えないから……。



闇のギルドには炎が巣食う。月に焦がれたり海に溺れたりして、それでも消えずに焦がれ揺れる炎が 巣食う。


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 おと様の「龍鎮め」および「邂逅する闇と剣」からの コンバートでいらっしゃいますがまさかこういう形になるとは…!と拝見した時は驚きと喜びの悲鳴を上げて しまいました(笑)
月が大事なのは変わらず。コンバートの関係で月の御方が複数おられるので紅闇様の喜びぶりを想像する だけでこちらも嬉しくなってきます(笑)ありがとうございます!


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