仕事の合間を縫って久し振りに訪ねると、仕事中でもない限りいつもは大層賑わっているそこがしん と静まり返っていた。

「珍しい、休みなのか?」

気に入らない客は叩きのめすが、仕事には誇りを持っている彼女はよほど高熱を出して寝込みでもし ない限りは働いている。
まさか病気でもしたのかと慌てて駆け込みそうになるが、シリウスなら今入ってもいないぞと隣人が 忠告してくれて足を止める。

「いない? なら病院、」
「あいつが病院送りにすることはあっても、世話になることはないだろうよ。そうじゃなくて」

苦笑めいて笑いながら教えてくれる隣人も、どこか影を帯びながら続ける。

「今朝になって、訃報が届いたのさ。ジンレイ師が亡くなられたんだと」

いい人だったのにと目を伏せる隣人にも悼まれるのは、天狼が子供の頃から世話になった師匠の名前。 いつだったか機嫌のいい時に一度だけ、彼女の口から聞いたことがある。師匠がいたからこそ、今の 自分があるのだと。
不遜で知られた彼女が唯一、素直に頭を垂れる相手。

ちらっと見かけたことしかないが、長い黒髪を後ろで一つに結わえた穏やかそうな男性だった。柔和 な笑顔がよく似合い、物腰も優雅だったが天狼でさえ一度も勝てたことがないらしい。
針と武道の全てを教わったと、心なし自慢げに語られたのだったか。

「……そんな年でもなかったろう」
「けど最近は、ずっと病院に入ってたらしい。どれだけ功夫の達人でも、病気には勝てなかったみた いだな」

見舞いも全部断られてたしなぁと遠い目をした隣人は、天極の高い位置にある肩を苦労して叩いた。

「今はそっとしといてやんな。どこにいるのかも分かんねぇけどさ」

しばらく店も開かないと思うぜと言い残した隣人は、喪章のついた腕を軽く上げて歩いて行く。
よく見れば街中、ひっそりと喪に服しているらしい。それだけ彼女の師匠は、この街に愛されていた と知れる。

(天狼……)

一度見かけたことがある程度の相手を惜しめるほど、彼は人間ができていない。それでも、大事な存 在を失う辛さなら理解できる。

彼は強く拳を握ると踵を返し、誰に尋ねるでもなく天狼の姿を求めて足を向けた。





シリウスはぼんやりと空を仰いだまま、ただひたすらぼうっとしていた。

いつもならどれだけ休息に出ても仕事が頭から離れないのに、今だけは何もかも抜け出ていく気がす る。
止める努力をしたいとも思えず溜め息だけを重ねて空を仰いでも、何だか白っぽく霞んだような空は、 少しも彼女の心を晴らしてはくれない。

(ジンレイ……)

呟く名前は、心がざらりと砂で撫でられたような感覚になる。

両親を知らない彼女にとって、師は親代わりだった。父であり兄であり、そして何より一番大事な相 手、だった。
愛しているという言葉では追いつかないほど、彼女そのものでさえあったのに。

「どうして死んだの」

責めるような言葉は、自分の胸にだけ痛く落ちる。

彼だとて好きで死んだわけではないのに、恨み言を受ける覚えもないだろう。
それでも最初に入院したと聞いた時から、一度も見舞いに行かせてくれなかった。

仕事を放り出しまでして駆けつけたのに、病室の前で入るなと厳しく叱られて立ち尽くすしかなかっ た。病院を出たら心配をかけたと謝りに行くから、二度とここに来てはいけない、と。
多分その頃から回復して病院を出ることは叶わないと知っていた師は、覚えているままに強い声で帰 りなさいと命じた。

「どうして……」

会いたかった。今生の別れになるなら尚更、会って話がしたかった。
あんな風に子供の頃から変わらないまま、叱られたのが最後の記憶なんて。

ひどいと、どうしても紡ぎたくなる言葉を堪えて唇を噛み、立てた膝に額を押しつけた。

この寒空にずっと座り込んでいれば、迎えに来てくれないだろうか。仕方がなさそうに息を吐き、困 った子だねと苦笑して頭を撫で。
おいでと手を差し伸べて、連れて行ってくれないだろうか。

彼が行くのなら、どこでも構わない。彼の居場所こそ、帰る場所だ。
もう手が届かないほど遠くに行くのなら、置いていかないで。連れて行ってほしい──、

「天狼」

思考を無理やり遮るように、ごつい気配が割り込んできた。

誰が天狼だと、怒鳴りつけるのも面倒臭い。ここに現れること自体が許し難いのに、何をしに来たの だろう。

胸倉を掴んで締め上げ、怒鳴り散らして蹴り飛ばして帰らせればいい。いっそこの殺意が赴くまま、 首に針を突き立ててしまえばいい。
そうしたらこの煩わしさからも解放されると思うのに、重い身体が動こうとしない。

一度呼びかけてきた相手はそれ以上何かを紡ごうとはせず、何だか居た堪れない様子でそこに突っ立 っているだけ。
顔を上げないまま帰れと吐き捨てるように念じるのに、どうやら届かないらしい。

苛々して怒鳴ろうかと思った時、肩にふわりと何かをかけられた。

それをしていいのは、隣でのそりといるでかい蛇ではない。腹立たしくかけられた何かを払い除ける と、悪いと小さい声が謝罪してきた。
それでも退かない気配にぎりぎりと歯を噛み締めていると、またそうと何かがかけられる。

吐き気さえする怒りを覚えながらまた払い除け、しばらくしてまたかけられ、払い除け、何度かそれ を繰り返してようやく振り向いて怒鳴りつけた。

「いい加減にしやがれ、喧嘩売ってやがんのか!?」

ふざけんなと声を尖らせて殴りかかりさえしたのに、頼りなく眉を下げたでかい図体の男は肩にかけ てくれていたのだろうショールを拾いながら避けもしない。
そこに重なるはずもない姿を思い出し、あんたじゃない、と知らず言葉が零れた。

「あんたじゃない、何であんたが来るのさあたしが待ってるのはジンレイだ! 顔も見せんな、見た くない、どっか行けこの馬鹿!!」

そのまま自分でも何を言っているのか分からないことを喚き散らしながら殴りかかったのに、待ち人 にあらざる蛇はただ黙ってそれを受け止めた。
何度か自分の手が痛くなるほどの衝撃があったのに痛いとも言わず、叫ぶのも殴るのも疲れてきた頃 にぎゅうと抱き締められた。

「悪い」

たった一言、謝られる側であるはずの相手に切なげに痛そうにそう呟かれて、他にどんな言葉があっ ただろう。
握っていた拳を解き、誰にも縋ったことのない手で強く抱き締めてくる相手の背中を捕まえた。

「天極……っ」

あんたじゃないと噛み締めるような残酷な言葉にも、蛇は何も答えないから。伝え聞いただけの死に 泣けないままだったシリウスは、ようやく涙を落とした。





すっかりと日が落ちて、薄っすらと白かった青い空は今や濃藍に占められている。
散りばめられた白い瞬きは、物言わず静かにシリウスを見下ろしている。

(ジンレイも、よくこうして空を見てたっけ……)

気づけば窓辺にいて、ぼんやりと空を見上げていた。ひどい時は裏の山に登り、背が高い木の細い枝 の先に寝そべっていることもあった。
何が面白いんだろうと何度も尋ねたが、そのたびにお前にはまだ分からないよと頭を撫でられた。

いつになれば分かるのか、今も分からない。

溜め息をつきながら凭れ掛かる広すぎる背中は、じんわりと温もりを教える。帰れと肘で突いても取 り合わず、意地でもそこにいるのなら風除けくらいには使ってもいい。

見上げる空は、深く静かだ。きっとジンレイが還った分、新しい星がひっそりと増えているのだろう。 どれがそれか、分かればいいのに。

星座なんて、さっぱり分からない。彼女の名前の星だと、後ろの蛇が楽しそうに語ってくれたのも覚 えてない。
ただ夜の真ん中、そここそが中央だと教えるように輝く星は見分けられるようになってしまった。

「……むかつく」

少し強めに凭れかかった背中に肘打ちを入れるのに、げほっと軽く咳き込んだだけで、ひでぇなぁと 受け流されるのも腹立たしい。
それでも離れていかないことにほっとしている自分が、もっと腹立たしい。

眉根を寄せて、口を曲げて、見上げる星空は凍てつくように冴えて。
きんと耳に痛い静謐に、歪めていた口許も自然と改まる。

(ジンレイ……)

彼が星を眺めていた理由は、まだ分からない。分かる日が来るかも、分からない。

目に痛い瞬きが、涙を誘う前にそっと息を吐いた。白く還るのは、彼の名前か、彼への想いか。

変に感傷的になっている自分は気色悪いが、誰も見ていないならしばらくだけ浸っていたい。
ジンレイがどれかと探すように星を眺め、また息を吐いた。

寒いなぁと、どうでもよさそうな声が後ろから聞こえるのは耳に触るが、背中が温かい間は聞こえな い振りもしようとただ星だけを見上げた。


増えた星が一つ、流れるのはまだ見つからない。




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 おと様から頂戴しました…ちょっとしっとり目のお話 ですね
星空の絵をかいた時に、天パパは寒風対策の壁扱いですとご連絡をしたのですがまさかこんな切なくも素敵 シチュエーションの壁になられるとは思いませんでした…!
強くてかっこいい天狼さんの別の一面。見せてもらえる位置にパパは来れたのでしょうか…?素敵ノベル ありがとうございました!


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